バレエを知るためのバレエの歴史。今回は第二次世界大戦後から現代にかけてのお話です。
前回までのお話。
バレエってどんなもの?バレエを知るためのバレエの歴史(1)
バレエってどんなもの?バレエを知るためのバレエの歴史(2)
20世紀前半までは西欧の舞踊だったバレエは、バレエ・リュスを経て世界中の国々へと伝播して国際化していきます。国際化によって、それまでは王侯貴族やブルジョワジー(中産階級)のための舞踊から、観客や参加者が一般市民に変わりました。また、ダンサーや振り付けの名手たちによって表現手法が洗練され、舞踊技術と演出方法が多様化、複雑化していきました。第二次世界大戦の終わりから、20世紀末までにバレエ文化は著しい発展を遂げ、舞台芸術の最前線へと躍り出るのです。
20世紀後半の代表的な振付家たち
20世紀後半のバレエを語る上で、振付家の存在なしでは語れません。ここでは、バレエ芸術を創り上げた巨匠たちの足跡を追っていきます。
バレエ・リュスにつながる振付家
ローラン・プティは、1940年にパリ・オペラ座に入団したバレエ・リュスに参加したボリス・コフノやジャン・コクトーに出会ったことがキッカケで自由な創造の場を求めて対談します。バレエ・リュス主宰のディアギレフの片腕だったボリス・コフノは、プティの初期の活動に協力します。48年にパリ・バレエを主宰し、『若者の死』、『カルメン』の成功で世界的な名声を手にします。以降、パリジャンヌらしいさわやかで洗練された作品を創り出します。50年代はハリウッドで映画界の振付師として活躍します。60年代になるとパリ・オペラ座や英国ロイヤル・バレエ団への振り付けをおこない、72年には現フランス国立バレエのマルセイユ・バレエの芸術監督に就任します。
モーリス・ベジャールは第2次世界大戦中にマルセイユでダンスを始め、終戦後の数年間はプティと同じガラ公演、ツアー公演にダンサーとして参加しました。1949年にスウェーデンに渡り、しばらくダンサーとして活動。初演のときに大スキャンダルを巻き起こしたバレエ・リュスの『春の祭典』を王立モネ劇場の委嘱で振り付け、高い評判を呼んで注目を浴びます。60年、モネ劇場の常設バレエ団として20世紀バレエ団を結成し、壮大なスケールのスペクタルでバレエの流れを大きく変えました。
二人の作品は、西洋の古典音楽だけでなく、前衛的な現代音楽とポピュラー音楽、西洋以外の民族音楽を積極的に用いていました。プティはバレエ作品にショービジネスの演出方法を用いた先駆者で、ダンサーは洒落た衣装を身に着け、扇子や羽飾り、たばこを小道具として使ったり、鏡、椅子、階段などの装置を使う作品も多くあります。
ベジャールの作品は、円陣に囲まれて踊る、二組の集団が対峙する数十人が整然と並ぶ、列を作って行進するなどの儀式的な演出が多く使われています。
物語バレエをつくった振付家
英国人振付家のアントニー・チューダーは、心理的バレエの創始者です。チューダーは伝統的なマイムや顔の表情に頼ることなく身体の動きで登場人物の内面や心情を表現しました。『リラの園』(1936)では、さりげない日常の仕草をバレエに取り入れ、視線を強調することで登場人物の微細な心の動きを描きました。1939年、チューダーはアメリカに渡り、ニューヨークでバレエ・シアター(後のアメリカン・バレエ・シアター)にダンサー件振付家として参加し、1942年に発表した『火の柱』でアメリカの観客の熱狂的な支持を受けました。
ニューヨーク生まれのジェローム・ロビンスは、チューダーに師事してバレエを学んだ後、1940年にバレエ・シアターに入団します。ロビンスの振付は、チューダーとは対照的で陽気で明るい外交的な物語バレエを創り上げました。デビュー作の『ファンシー・フリー』はバレエ・シアターに振り付けた作品で、すぐにミュージカル化されたあと、ジーン・ケリー、フランク・シナトラ主演の『踊る紐育(ニューヨーク)』として映画化されました。戦後、バーンスタインとの共同作『ウェスト・サイド・ストーリー』を筆頭に、『王様と私』、『屋根の上のヴァイオリン弾き』などの大ヒットミュージカル作品を手掛けます。
ジョン・クランコは「物語バレエ」というジャンルを確立させた振付家です。クランコはイギリスでロイヤル・バレエの前身となるサドラーズウェルズ・バレエに入団し、若くして振付家としての才能を開花させます。1961年にドイツのシュツットガルト・バレエの芸術監督に就任すると、瞬く間に「物語バレエ」を創作して成功させ、「シュツットガルトの奇跡」と讃えられます。全幕バレエ『オネーギン』(1965)、『じゃじゃ馬ならし』(1969)など、多幕ものの物語が人気を呼びました。それまでの全幕バレエのパ・ド・ドゥはテクニックを見せることに主眼を置かれていて、その頂点が終幕のグランパ・ド・ドゥでした。しかし、クランコはそれまではモダンダンスのものと考えられていた床を這う動きをバレエに取り入れ、またアクロバティックなリフトで主人公たちの喜怒哀楽を描きました。
ケネス・マクミランはヒロインの愛と死を劇的に描き出す振付家です。マクミランはサドラーズウェルズ・バレエに入団し、ダンサーとして将来を嘱望されるも、舞台恐怖症に陥り、振付に専念します。1970年にロイヤル・バレエの芸術監督に就任します。代表作の『ロミオとジュリエット』(1965)では、「バルコニーのパ・ド・ドゥ」が有名です。バレリーナを宙に舞わせるリフトによって恋の喜びを歌い上げています。対して終幕ではロミオは仮死状態のジュリエットを抱きしめ、『マノン』(1974)では、「寝室のパ・ド・ドゥ」に対してデ・グリュが瀕死の恋人マノンを振り回して泣き叫ぶという対極のパ・ド・ドゥを用いて生と死を描きました。
同じく、イギリスではピーター・ライトも物語バレエに貢献しています。クランコがシュツットガルト・バレエの芸術監督に就任したときには、同団でバレエマスターを務めました。ピーターは『ジゼル』、『白鳥の湖』、『くるみ割り人形』、「眠れる森の美女」などの19世紀の名作を、台詞なしでもわかりやすく伝えるために、振付や美術や衣装、舞台展開をアレンジして、演劇作品として洗練させました。
1970年代に入り、さらに物語バレエを深めたのは、クランコの弟子、ジョン・マイヤーです。アメリカ生まれのノンマイヤーはロイヤル・バレエ・スクールでバレエを学び、シュツットガルト・バレエでダンサーとして踊りながら振付も始めます。フランクフルト・バレエの芸術監督に就任した後、73年にハンブルク・バレエに就任します。古典に新しい光を与えるバレエとして『幻想・「白鳥の湖」のように』(1976)、『椿姫』(1978)、『オテロ』(1985)、『ニジンスキー』(2000)、『人魚姫』(2005)などを発表しました。ノンマイヤーの振付は求心性と緩急を特徴としていて、いずれの作品も、これまでのバレエでは考えられなかった複雑で微妙な人間心理が描かれており、表現の可能性を大きく広げました。
抽象バレエを創り出した振付家
バレエ・リュス最後の振付家、ジョージ・バランシンはバレエ・リュス解散後に米国へ渡り、ロシアで完成されたダンス・デコール(西欧の伝統的な舞踊技法)を尊重しながらも、そのまま継承するのではなく、舞台空間をより速く、より広く使う独自のメソッドを開発し、物語を排除した抽象的なバレエを創り上げました。渡米以降の作品には筋書きがなく、音楽と、ダンサーのポーズ・動きのみによるバレエ表現が多く、「視覚化した音楽」や「プロットレス・バレエ」、「シンフォニック・バレエ」あるいは「新古典主義」と呼ばれています。
1980年代に入ると、ウィリアム・フォーサイスが『イン・ザ・ミドル・サムホワット・エレヴェイテッド』などで一世を風靡します。フォーサイスは、テクニックの優雅さではなく突き刺すような鋭さを象徴するメソッドを開発し、バレエを脱構築し、ポストモダニズムを企てたと評価されました。フォーサイスの振付は、動きの始点と終点はバレエのポーズで、バレエの典型的なステップも登場します。その上で、直線的な動きやきわめて速度の速い動きが登場するため、彼のダンスを「ハード・バランシン」と呼ぶこともあります。
フォーサイスは、バレエの中にある制約的な構造をいったん解体し、新しい制約を与えて再構築することで、全く新しいバレエを創り上げました。
イリ・キリアンは、おそらく今もっともダンサーたちに人気のある振付家です。キリアンはチェコに生まれ、1968年にシュトゥットガルト・バレエに入団した後にネザーランド・バレエ・シアターの芸術監督に就任します。イリはモダンダンスのグレアム・メソッド(マーサ・グレアムが案出したコントラクション・アンド・リリースを用いたメソッド)をバレエに融合させ、それまでのバレエ作品にはなかった身体の動きを次々に取り入れ、観客に新鮮な驚きを与えました。振付の特徴は、波動と流線。四肢は伸びては縮み、アクセントをつけて波打ちながら、なめらかな曲線を描き続けます。また、照明を大胆に使った演出や、建築的な立体感のある舞台づくりをしていて、まるで絵画的な美しい視覚を創り上げています。日本のアーティストとのコラボレーションも行なってます。
20世紀後半のスターダンサー
20世紀後半は、多くの世界的なスターダンサーを排出し、バレエの歴史を塗り替えるほどの大きな影響を与えました。ここでは、そんなダンサーたちを紹介します。
過酷な運命と戦い抜いた伝説のダンサー
1925年、モスクワでユダヤ人家系に生まれたマイヤ・プリセツカヤは、旧ソ連の体制下で父親はスパイの容疑で銃殺、さらに母親も収容所生活を強いられました。そのため、バレエダンサーの叔母や叔父のもとで育てられました。モスクワ舞踊学校を卒業後にボリショイ・バレエ団に入団し、ソリストとして活躍します。しかし、ユダヤ人であったために迫害され、ソビエト政権の厳しい監視下に置かれて貧しい生活を強いられました。また、亡命を恐れて海外公演に出られないこともありました。1980年代のソ連末期になると、海外のバレエ団にゲスト出演する機会が増えて国際的に活躍しました。代表作の『瀕死の白鳥』や『カルメン組曲』での名演は、今も語り継がれています。
ソ連から亡命した3人のダンサー
1960年から1970年代、東西冷戦が勃発したことで、ソ連から3人のバレエダンサーが亡命し、西側諸国のバレエ界に大きな影響を与えます。
ルドルフ・ヌレエフは圧倒的な存在感で後進の男性ダンサーに大きな影響を与えたダンサーです。ヌレエフ17歳で名門ワガノワ・バレエ・アカデミーに入学後、キーロフ・バレエに入団します。しかし、反逆児として政府に目をつけられ、1961年キーロフのパリ公演直後に空港で突然の亡命を果たします。イギリスでは引退が囁かれていたロイヤル・バレエのプリマドンナ、マーゴ・フェンテインと共演した『ジゼル』で評判を呼び、10年に渡るパートナーシップで活躍しました。フランスではパリ・オペラ座で芸術監督を務め、数々の古典作品を改訂上演しました。
ナタリヤ・マカロワは13歳の時に、ソビエトのワガノワバレエアカデミーに入学し、入学後はキーロフ(現マリインスキー)・バレエ団に入団し、すぐにソリストに昇格します。1970年、キーロフ・バレエ団のロンドン公演中の1970年9月4日、自由な芸術活動を求めてイギリスに亡命。その後はアメリカン・バレエ・シアターに入団し、1972年からは英国ロイヤル・バレエ団と共演。ルドルフ・ヌレエフやアンソニー・ダウエルなどをパートナーに、幅広い役を踊り、大スターとなりました。また、プティ、ベジャール、マクラミンなど20世紀を代表する多くの振付家の作品を初演しています。
ミハイル・バリシニコフは9歳のときにバレエを習い始め、16歳で歳でレニングラードのワガノワ・バレエ・アカデミーに入学します。1974年のキーロフ劇場バレエ団のカナダ公演中に失踪し、アメリカに政治亡命申請を行いました。その後は主にアメリカを拠点に活躍します。1976年に初のモダン・ダンスとなった「プッシュ・カムズ・トゥ・ショヴ」で注目を浴び、振付や演出にもかかわるようになります。同年、アメリカン・バレエ・シアターにプリンシパルとして入団し、80年に芸術監督に就任します。その後は、コンテンポラリーダンスのカンパニーを結成したり、俳優として活躍しています。
超絶テクニックを持つダンサー
シルヴィ・ギエムは100年に一人と言われる柔軟で強靭な肉体を持つダンサーです。1984年、ヌレエフからパリ・オペラ座で最高のダンサーであるエトワールに任命され、19歳でスターになりますが、「自立した国際キャリア」を求めてその座を捨てて5年後にはイギリスのロイヤル・バレエに移籍し、フランスの「国家損失」とまで言われました。以降はベジャールやフォーサイス、マッツ・エックらの振付家が多くの作品を提供しています。ほぼ180度に開脚できる「6時のポーズ」など身体能力は驚異的で、ギエムの以前と以降では観客が女性ダンサーに求める演技が変わりました。
締めくくり
3回に渡り、バレエの歴史を紐解いてきましたが、こうして歴史に触れることでよりバレエへの理解が深まったのではないでしょうか。
バレエの歴史は、世界の歴史でもあります。今後、バレエ作品を見るときには歴史背景や振付家などに意識して鑑賞してみるのもいいかもしれません。
参考文献
乗越たかお(2010) 『ダンス・バイブル コンテンポラリー・ダンス誕生の秘密を探る』 河出書房新社 ISBN-13 : 978-4309272290
渡辺真由美(2006) 『バレエの鑑賞入門』 世界文化社 ISBN-13 : 978-4418202102
鈴木晶 編集(2012) 『バレエとダンスの歴史 欧米劇場舞踊史』 平凡社 ISBN-13 : 978-4582125238
山本康介(2020) 『英国バレエの世界』 世界文化社 ISBN-13 : 978-4418202027
ダンスマガジン 編集(2012) 『バレエ・パーフェクト・ガイド 改訂版』 新書館 ISBN-13 : 978-4403320385
渡辺真由美(2006) 『名作バレエ70鑑賞入門 物語とみどころがよくわかる』 世界文化社 ISBN-13 : 978-4418062522
富永明子(2018) 『バレエ語辞典: バレエにまつわることばをイラストと豆知識で踊りながら読み解く』 誠文堂新光社 ISBN-13 : 978-4416617953
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