バレエを知るためのバレエの歴史第二弾です。今回はロシア・バレエから現代までの歴史をご紹介していきます。
第一弾はこちら。
バレエってどんなもの?バレエを知るためのバレエの歴史(1)
ロマンティック・バレエの衰退
ロマンティック・バレエは、多くの上演作品は、妖精と人間の悲恋をテーマにしていて、手を変え品を変え似たような作品が繰り返し上演されていました。また、優れたバレリーナに恵まれなかったということもあって、1830〜1840年頃の7月王政の頃を最盛期として徐々に衰退を迎えます。
第二帝政期末の1870年にパリ・オペラ座で上演された『コッペリア』は久々の成功作となりますが、ロマンティック・バレエ最盛期の作品とは明らかに違っていて、舞台は東欧に設定されているものの世俗的なコメディ要素が強い作品になっています。この作品の主役を踊ったバレリーナはその翌年に17歳で亡くなり、1873年にはパリ・オペラ座が火災で消失するなど、不幸な出来事が続いた末にロマンティック・バレエは幕を閉じます。
ロシア・バレエの時代
ロマンティック・バレエが衰退していった19世紀末になると、ロシアの首都サンクトペテルブルクでクラシック・バレエが開花します。ロシアでは産業革命が遅れており、ロシア革命まで皇帝による専制政治が続いていました。観客の主体は20世紀に入るまで貴族とその周辺であり、バレエは皇帝の庇護のもとにありました。19世紀末になると、皇帝と貴族による支配体制は崩れてきますが、それでも西欧の劇場のような商業化は進まず、サンクトペテルブルクのマリインスキー劇場も、モスクワのボリショイ劇場も皇帝の直属にありました。
18世紀にヨーロッパからバレエを輸入し、バレエ学校が創設されてから、皇帝の庇護のもとフランスから招聘された一流のバレエマスターたちと有名バレリーナによって発展をしていきます。
マリウス・プティパ
フランスの舞踊家であるマリウス・プティパは、13歳のときにブリュッセルで初舞台を踏んだ後、父親のバレエ団のダンサーとしてフランス各地をめぐり、スペインを巡演した後にロシアに渡ります。ジュール・ペローとサン=レオンの助手を務めた後、1862年にバレエマスター、69年に首席バレエマスターを務めます。
1862年に『ファラオの娘』をで成功を収めると、専任バレエ教師であるメートル・ド・バレエに就任。その後も『ドン・キホーテ(1869)、『バヤデルカ(バヤデール)』(1877)と大作を送り出します。
1890年には、当時すでに名声を確立していたチャイコフスキーに作曲を依頼し、クラシック・バレエの金字塔とされる『眠れる森の美女』を上演します。この作品は、シャルル・ペローの動作を原作にした作品で、マリインスキー劇場総裁のフセヴォロスキーが発案し、自ら台本を手掛けた作品です。当時、マリインスキー劇場バレエは人気が低迷していて、客の入りが悪かったため、挽回するために莫大な予算をかけて製作されました。
続いて、1892年には『くるみ割り人形』、1895年には『白鳥の湖』が上演されます。この作品は1877年にモスクワで初演を迎えていましたが、チャイコフスキーの死後、大幅に改訂したもので、蘇演(長く埋もれていた作品を演奏することで蘇らせること)版と呼ばれています。振付は第1幕第1場と第2幕をプティパ、第1幕第2場と第3幕を副バレエマスターのレフ・イワーノフが受け持ちました。プティパは、改訂にあたり原典譜からかなりの曲を削除し、原典譜に入っていない、チャイコフスキーの他の作品をいくつか入れています。様々な版があるのはそのためだとされています。
プティパは『眠れる森の美女』以降、創作力が衰え、『ライモンダ』(1898)の他に傑作はありませんでした。
プティパが確立したバレエ様式
プティパが生み出した作品のほとんどが、様々な改訂をされながら世界中で今も上演されています。今日、バレエと呼ばれているものは、その基本をプティパが作り上げました。このプティパが作り上げた様式をクラシック様式といい、クラシック・バレエと呼ばれるようになります。ちなみに、この用語は和製英語で、イギリスでは”classical ballet”、フランスでは”ballet classique”といいます。
プティパがバレエにもたらしたクラシック様式には、いくつかの特徴があります。大きな特徴を挙げると以下の3つです。
- ディヴェルティスマン
- グラン・パ・ド・ドゥ
- バレエ・ブラン
これまでのバレエは、オペラと組み合わせて上演していたため、オペラでの言葉で物語を伝えていた部分をマイムによって伝えていました。バレエ・ダクシオンでは複雑な物語を伝えられることができず、また舞踊的要素も少なかったためいささか退屈なものでした。
ロマンティック・バレエではこのマイム部分をいかにして舞踊的にするか、振り付け師たちは頭を悩ませていました。
プティパは、ある意味で時代に逆行し、「物語を進行させるマイム」と「踊りを見せるダンスシーン」を分離させます。マイムによって説明する部分が長いと退屈になってしまうので、物語を単純化し、物語部分を減らして舞踊に重心を置きました。また、装飾的な役割しか与えられていなかった舞踊部分を形式化させて独立させました。
また、プティパは、ロシアを訪れる前にヨーロッパ各地を訪れていた経験を活かして、作品の随所にキャラクター・ダンス(民族舞踊)を取り入れています。こうした物語に関係のない余興的なダンスシーンを、ディヴェルティスマンといいます。
このディヴェルティスマンの中のハイライトが、主役のバレリーナ(女性のダンサー)とダンスール・ノーブル(男性のダンサー)が踊るグラン・パ・ド・ドゥです。①アントレ(入場)②アダージョ(比較的ゆったりしたテンポで男女が組んで踊る。パ・ド・ドゥともいう)③ダンスール・ノーブルのヴァリエーション④バレリーナのヴァリエーション⑤二人一緒のコーダ(アップテンポな曲でそれぞれが競うように技を披露して華やかに終わる)という構成になっていて、踊りの最大の見せ場となっています。
さらにプティパは、ロマンティック・バレエにおける幻想的なコール・ド・バレエ(群舞)を装飾的に機能させました。このコール・ド・バレエは白いチュチュを着ていることからバレエ・ブラン(白いバレエ)とも呼ばれ、ダンスの抽象的な美しさを描いています。
バレエの歴史を変えたバレエ・リュス
ロシアで完成されたバレエは、今度はヨーロッパに舞台を移します。もともとのバレエの生みの親であるフランスのバレエは、19世紀末から20世紀初頭にかけてすっかり衰弱し切っていました。
1909年、セルゲイ・ディアギレフ率いるバレエ・リュス(フランス語でロシアのバレエの意)がパリのシャトレ座で第一回公演を行います。このときに上演されたのは、『アルミードの館」、『レ・シルフィード』、『クレオパトラ』などで、夏季休暇中の帝室劇場(マリインスキー劇場とボリショイ劇場)のダンサーたちが顔を揃え、舞台の上で繰り広げられるロシア・バレエの迫力に観客たちは圧倒されました。この公演は成功を収め、結果的にこの公演がバレエの歴史を変えることになります。
1910年の公演後、ディアギレフはロシア国内での活動に限界を感じ、活動拠点を西欧に移すために正式なバレエ団を結成することを決意します。ディアギレフのもとには、かなりの数の帝室劇場のダンサーが集まります。また、マリインスキー劇場の看板スターだったワスラフ・ニジンスキーがトラブルを起こして解雇され、ディアギレフのバレエ団に参加します。
主宰のディアギレフは、「天才を見出す天才」と呼ばれていて、他人の芸術的才能を見出す力に優れていて、新しい芸術家たちの発掘に目を光らせていました。音楽家のストラヴィンスキー、プロコフィエフ、ラヴェル、ドビュッシー、サティ、美術家のバクスト、ピカソ、マティス、ドランなどが創作活動に協力しました。
バレエ・リュスは第一次世界大戦やロシア革命により何度も困窮に陥りますが、かろうじて生き延びます。1929年8月、一座は夏季休暇に入りましたが、ディアギレフは持病の糖尿病が悪化して他界。バレエ・リュスはそのまま自然解散し、団員たちはそれぞれの地で20世紀のバレエを創造し根付かせていきました。
バレエ・リュスの振付家たち
最初の頃の作品は、ミハイル・フォーキンが振り付けを行なっていました。フォーキンは、マリウス・プティパが確立したクラシック様式に反発し、バレエはその舞台と時代にふさわしいダンスによって構成されるべきだと主張しました。コール・ド・バレエの装飾的な用い方を否定し、群舞はキャラクター・ダンス(民族舞踊)を中心に作品の振り付けを行いました。ロシアの風土を感じさせるエキゾチックなその作風は、20世紀初頭のパリでは異国情緒あふれる目新しいものとして受け入れられました。また、フォーキンは紋切り型のマイムを廃止し、舞台と時代に合わせた新しいマイムを考案しました。1914年を最後にバレエ・リュスと決別し、第一次大戦後はアメリカを中心に活動しました。20世紀のバレエの今日のバレエ・リュス作品として最も上演されているのは、フォーキン作品です。
4年目からはワスラフ・ニジンスキーが振付に目新しさを求めたディアギレフの勧めで、『牧神の午後』によって振付家としてデビューします。ニジンスキーは『遊戯』『春の祭典』を発表し、その斬新でスキャンラスな振り付けで話題を呼び、バレエ・リュスはさらなる人気を高めていきます。しかし、南米公演中に電撃結婚をしてディアギレフの怒りを買ってしまい解雇されます。1916年4月に戦争でブタペストに軟禁されていましたが、ディアギレフが複数の外交ルートを使って開放されると、バレエ・リュスの団長として北米と南米を巡演します。しかし、『ティル・オイレンシュピーゲル』を上演した後、精神に異常をきたして舞台に復帰することはありませんでした。
ニジンスキーが解雇された後、ディアギレフは『ヨゼフ伝説』で主演したレオニード・マシーンに振付家教育を施し、1915年に『夜の太陽』で振付家デビューします。1915年から1920年までバレエ・リュスで活躍した後、解散後は世界中で活躍します。1930年にはシンフォニック・バレエと呼ばれる交響曲を用いた作品で、賛否両論を巻き起こしました。
ブロニスワラ・ニジンスカはワスラフ・ニジンスキーの妹で、兄とともにバレエ・リュスに参加し、キャラクターダンサーとして活躍しました。バレエ・リュスで振付家として活動した期間は短いのですが、バレエ・リュスの最高傑作である『結婚』や、『牡鹿たち』『青列車』を手掛けました。バレエ・リュスを離れてからは、『妖精の口づけ』やラヴェル作曲の『ボレロ』を振り付けます。また、自分の舞踊団を結成して各地を巡演後、アメリカの西海岸に学校を開いてダンサーを育成し、振付家としても幅広く活動を続けました。
バレエ・リュス最後の振付家が、ジョージ・バランシンです。マリインスキー劇場のダンサーとして活躍していましたが、ロシア革命後に亡命。1924年にディアギレフに誘われて、バレエ・リュスに振付家として参加します。28年に『ミューズを導くアポロン』、29年には『放蕩息子』を発表して注目されます。バレエ・リュス解散後はアメリカに渡りました。
ディアギレフとバレエ音楽
19世紀にはバレエ曲というのは、バレエ専門の作曲家やバレエ団に所属する指揮者が書いていました。19世紀のバレエでは音楽的に優れた曲よりも踊りやすさが重要視され、また、既成の楽曲を用いることはありませんでした。
対してディアギレフは、一流の作曲に委嘱することをモットーとしていました。初期にはドビュッシー、ラヴェル、リヒャルト・シュトラウスといった大作曲家に曲を依頼していました。
ストラヴィンスキーとは、実生活では頻繁に喧嘩と和解を繰り返していましたが、ディアギレフはストラヴィンスキーの新作を常にバレエ・リュスの最重要作品とみなしていました。一方のストラヴィンスキーも、バレエ・リュスによって国際的名声を得たのでした。
後期になると、常に新しい音楽を提案していただけでなく、作曲料が安かったというのもあり、「フランス6人組」と呼ばれたミヨー、オーリック、プーランクらに委嘱しました。
ディアギレフと舞台美術
19世紀バレエにおいて、美術もまた最重要視はされていませんでした。音楽面と同じく、ディアギレフは美術を一流の美術家に委嘱することをモットーとしていました。初期の作品では、レフ・バクストが作品のほとんどを手掛けていましたが、バクストの限界を見抜くと、ピカソやマティスのような最新流行の画家や、ラリオノフ、ゴンチャロワなどのロシアの新民族主義的な画家に委嘱をします。ピカソはディアギレフが自分を有名にしてくれたという趣旨を述べていて、画家たちにとってもバレエ・リュスで仕事をすることはステイタスとなっていました。
芸術監督が振付のみならず、音楽や美術を統括する現在のバレエ界のシステムはディアギレフが創始したことによります。また、照明のリハーサルは彼自身が先頭に立って行なっていました。
バレエ・リュス後のバレエの動き
ディアギレフの死後、バレエ・リュスが解散すると多くのダンサーや振付家によってその芸術的遺産を継承しようとする動きが起こります。
バレエ・リュスのレパートリーはモンテカルロ歌劇場の支配人、ルネ・ブルムが管理することになります。ブルムは、パリでロシア歌劇団を経営していたバジル大佐とともに、バレエ・リュス・ド・モンテカルロを結成し、ヨーロッパ及びアメリカを巡演します。初シーズンはバランシンが振付家として参加しますが、すぐにマシーンに交代します。
1936年にバジル大佐とブルムが衝突し、ブルムはマシーンとともに新しいバレエ・リュス・ド・モンテカルロを結成。バジル大佐のバレエ・リュス・ド・モンテカルロは、バジル大佐のバレエ・リュスと改名し、さらにはコヴェント・ガーデン・ロシア・バレエ、オリジナル・バレエ・リュスと改名し、ロンドン公演を中心に、ヨーロッパ各地やアメリカ、オーストラリアでも公演を行い、第2次世界大戦中と戦後はブラジルとアルゼンチンを5年間掛けて巡演。1948年に解散をします。
一方、ブルムのバレエ団はマシーンが芸術監督をつとめ、第二次世界大戦勃発後は、アメリカに拠点を移し、アメリカで最初の大規模バレエ団となったあと、1962年に解散をします。どちらのバレエ団も、バレエ・リュス作品を継承し、世界各地で公演したことによってそれまでバレエ文化が根付いていなかった国までバレエが伝わっていきました。
アメリカ
バレエ・リュス最後の振付家、ジョージ・バランシンは1933年に渡米し、翌年にはバレエ学校を設立します。46年にはニューヨーク・シティ・バレエを結成します。
バランシンは、プティパのクラシック・バレエから物語部分のマイムを取り払い、音楽と身体の動きという舞踊の本質だけで表現する「プロットレス・バレエ」を生み出します。同時にバランシンはバレエが持っているヨーロッパ的な要素を取り除いたアメリカ的雰囲気の作品も創り、アメリカ独自のバレエ文化を創り上げました。
イギリス
イギリスでのバレエ上演の歴史は長いのですが、イギリス人による初めてのバレエ団が結成されたのは1931年のことです。ディアギレフのバレエ・リュスがロンドンでの公演を頻繁に行うようになると、新たなバレエブームが起き、「自国のバレエ団を作りたい」という機運が盛り上がっていきます。
1923〜25年にバレエ・リュスに参加したニネット・ヂ・ヴァロワが、帰国後に自分のバレエ学校を創立。5年後の1931年にはその上演団体としてバレエ団を旗揚げします。これが後のロイヤル・バレエの礎となります。
彼女はバレエ・リュスの根底にはロシア帝室バレエの古典様式があり、あらゆるバレエの礎であることを確信し、それをイギリス・バレエの礎にしようと考えました。ディアギレフの死後、バレエ・リュスの精神を引き継ごうと、カマルゴ協会という上演団体とバレエ・リュス出身のマリー・ランベールの団体が立ち上がります。ランベールの団体はその後曲折を経てコンテンポラリーダンスのカンパニーになりました。
一方でヴァロワのカンパニーはクラシックのバレエ団として大きく発展し、サドラーズウェルズ劇場に本拠地を移してサドラーズ・ウェルズ・バレエと名乗ります。終戦後の1946年にはロイヤル・オペラ・ハウスの常駐カンパニーとして迎え入れられ、1956年には王室勅書(国王に承諾された特許状)により、「ロイヤル・バレエ」という名称を許されました。
フランス
パリ・オペラ座では末期のバレエ・リュスを支えたセルジュ・リファールが芸術監督に就任します。20世紀中頃のパリはまだ世界の芸術の中心だったこともあって、かつてヨーロッパでのバレエの中心だったフランスの伝統を蘇られることが課題となります。リファールは自身の作品を発表しながら数々の改革を行ってオペラ座のバレエを根本的に立て直し、オペラ座に隆盛をもたらしました。
現代のお話は、次回に続きます。
参考文献
乗越たかお(2010) 『ダンス・バイブル コンテンポラリー・ダンス誕生の秘密を探る』 河出書房新社 ISBN-13 : 978-4309272290
渡辺真由美(2006) 『物語とみどころがわかるバレエの鑑賞入門』 世界文化社 ISBN-13 : 978-4418202102
鈴木晶 他(2012) 『バレエとダンスの歴史 欧米劇場舞踊史』 平凡社 ISBN-13 : 978-4582125238
山本康介(2020) 『英国バレエの世界』 世界文化社 ISBN-13 : 978-4418202027
ダンスマガジン 編集(2012) 『バレエ・パーフェクト・ガイド 改訂版』 新書社 ISBN-13 : 978-4403320385
渡辺真由美(2006) 『バレエの鑑賞入門』 世界文化社 ISBN-13 : 978-4418062522
富永明子(2018) 『バレエにまつわる言葉をイラストと豆知識で踊りながら読み解く バレエ語辞典』 誠文堂新光社 ISBN-13 : 978-4416617953